tetok’s blog

母を嫌い。そんな自分が嫌でした。病気を抱え辛い毎日。母を恨むしか思い付かない。

母と暮らすまで。

 

 

 

母と一緒に暮らしてます。

父が亡くなって半年くらい過ぎた頃から。

 

私は何があっても一緒に住む気は無かった。

父が亡くなって金銭面で一人では生活するのが苦しかったからだ。

私が子供を産んでからは、行き来はするようにはなっていたけれど

普通の親子の様には行かなかったし私は苦痛でしか無かった。

 

いざ、暮らすことを決めて話し合いをすると、立場が逆転した

様な話しぶり。

 

一緒に住んでやる。

 

やっぱり、バカなんだと思った。

 

住み始めるまでに何度も何度も喧嘩をした。

同居なんてしないと言い切って別れる。

 

そうすると、私の職場や夫の職場に電話をして来たり、

友達に頼んで仲を取り持って貰おうとしたり。

身内は、私と母の関りを見てきて一緒に住む必要は

無いと話して居た。

 

 

それでも、諦める事もなく執拗に電話や人を連れて来て

悲劇の母親気取り。

 

「子供の面倒も見なかった親が、子供の邪魔をするな。」

 

私が母の友人の前で言うと、顔色を変えて怒鳴り出した  

 

「嘘ばかりつくな」

 

私を嘘つきと言い出した。

自分が嘘をついて、体裁を気にして一緒に住もうとしてる

相手を陥れて。

 

一人で生きて苦労して一人で死んで行けばいいと思った。

今もそう思う時が頻繁にある。

 

だけど、母は自分の思い通りにするまで馬鹿だと

思われても何とも思わない。

考えられない。

 

図太すぎる。

 

いつまで、振り回されるのか。

人を憎むのは疲れる。

 

私の子供の頃。

 

 

今日は私の子供時時代。

 

小学校に入った頃から父親の暴力が私にも始まり、

毎日が父親の機嫌を伺う感じで家に居るのが嫌でした。

 

父が休みの日は母と私を連れてパチンコ店に行く。

父も母もパチンコに夢中。

私は一人でウロウロして終わるのを待つ。

昼になっても二人は全くお構いなし。

お腹が空いても言えない、夕飯まで我慢。

 

パチンコで負けた時は二人とも機嫌が悪く私はまた

殴られるんじゃないかとドキドキしていた。

逆に勝った時は、今で言う居酒屋の様な所で食事をする。

何が食べたいと聞かれて、食べたい物を言うとケチ

付けられて結局は父が選ぶ卵焼きや唐揚げ。

聞かなきゃ良いのに。

毎回、そう思ってたけど答えなきゃ家に帰ったら

殴られる。

 

 

小学6年生の夏休みが終わる頃。

父の妹、叔母が家に来た。

私は前日に父に殴られ泣きはらした顔でいた。

叔母とは年に数回しか会っていなかったが、会う度に

可愛がってくれた。

叔母が来るのが分かると嬉しかった。

 

その日、叔母は近くまで来たついでに家に寄った。

私の泣きはらした顔や木製の物差しで叩かれた跡が両腕に

あるのを見て、母を問いただした。

 

 

父が母に暴力を振るっていた事は叔母も知っていた。

父に幾度となく改める様に話してくれていた。

 

叔母が私にも何があったかを聞いてくる。

でも、叔母に言ったら父にまた殴られる。

母でさえ助けてはくれないのに、叔母だって助けては

くれないと話せなかった。

 

 

叔母は一緒に来て待たせていた自分の夫を呼び、私を預けた。

私は叔父と自宅から近い喫茶店に行き、好きな物を

食べなさいと言ってくれた。

注文をして待つ間、叔父が泣きはらした顔を撫でてくれた。

その時に、涙が出た。

 

 

叔父に話した。

全部、話した。

 

泣きながら食べたホットケーキは味が分からなかった。

 

叔父は私が食べ終わると直ぐに立ち上がり自宅に戻った。

父が仕事から呼び戻されていた。

叔母が泣きながら話して居た。

 

 

叔父が割って入り「最低な親だ。警察に言うか俺に預けるか

          どっちかにしろっ」

 

叔父が言った。

黙る、私の親。

 

私は叔母と叔父の家に。

ただ叔母たちは他県に住んでいたので学校の問題もあった。

私は親から離れられた喜びと、逆に言葉にならない複雑な気持ち。

自分の居場所がなくなりそうで怖かった。

 

 

思い出すと辛い。

叔母と叔父は子供が居なかったのもあり、私を我が子の様に

可愛がってくれました。

二人が居なかったら私は今頃、いなくなってたかも。

 

 

 

言葉の暴力。

 

 

今日、私は酷く体調が悪かった。

 

私は、線維筋痛症と言う病気。

更年期障害も重なり、酷くなると寝込んでしまう。

 

今日は寝不足と線維筋痛症の痛みが起きて辛かった。

母の朝食を準備して、起きて来た母に具合が悪いから

少し横になると伝えた。

 

 

朝食を食べ終えた母が私の寝室に来て。

「今から、そんなんでは周りが迷惑する。

       入院でもしたら諦めつくのに」

 

私は、母と必要な事以外は話さない。

目も合わせない。

言い返されないと思うからか、言いたい事を口に出す。

 

 

私が動けないと思って夫が夕飯に弁当を買って来てくれた。

母が弁当を食べながら

「ここの人が作るご飯より美味しいわ」

夫も私も無視。

 

ここの人とは、私の事。

 

一緒に住まなきゃならないのかいつも考える。

これほど私を否定しながら居るのは母自身も嫌だろう。

父が亡くなって一緒に住んで欲しいと言うって来たのは

母からだ。

世間体を考えたんだろうけど、本当に酷い。

 

 

私は母のせいで線維筋痛症と言う病気になってしまったんだと

思ってる。

ストレスが主な原因と言われている。

 

 

小さい頃は暴力、今は言葉の暴力で毎日責められる。

 

何度も母を殺して楽になりたいと爆発した。

その度に子供達の将来を考えろと夫に止められた。

この厄介な暴言や行動は病気なのかと病院にも連れて行き

診てもらった。

 

医者からは生まれ持った性格。

図太くて自分が一番大事な人間と言う事だ。

性格と言われたら治しようがない。

 

 

言わせておくのも腹立たしいけどいちいち相手にしていたら

こっちが駄目になる。

まあ、結果的に私は身体にダメージを受けた。

 

母を許さない事が私の力になる。

私の痛みは分かって貰えない。

私は心の中で何度も母を痛めつけてる。

 

 

私の人生の半分以上、あの人に駄目にされて

これからも続くなら許さないで生きて行く。

 

ゆっくり、何も考えずに眠りたい。

 

 

今の母親。

 

今現在の母親は80歳。

父は、5年前に他界した。

 

母は年の割にはどこも悪い所も無くて足腰も

丈夫。

食欲もあって素早く動けるし周りからも驚かれる。

本当に元気。

 

 

父が亡くなって、生き返った様に明るくもなった。

 

 

若い頃の様に喧嘩もしなくなってはいたけれど、父の我が儘は

同じだった。

母は父の顔色を気にしながら生きて来た。

 

 

父は倒れて5か月も意識が無いまま亡くなった。

父が入院してる間から母の我が儘も始まった。

5か月の間に母が父の病院に行ったのは2回だけ。

見舞いに行こうと言うと、自分が具合が悪いと騒ぎ出した。

 

 

父の病状が落ち着かず、頻繁に病院から連絡があった。

その頃、母は友達と約束していたからと泊まり掛けで

旅行に出掛けた。

 

 

私は大激怒した。

何かあったらどうすると。

 

母は、父の事は恨んでいると言った。

だから、自分(母)は父の面倒も見たくない、と。

 

 

だったら、母はどうなのか?

私も、母を憎んでる。

父の事も憎んでた。

 

 

だから、私はその日から父の病院に行くのを止めた。

「なら、私も行かない。アンタらの面倒は私も見ない。アンタと

  同じ事をしてやる」

 

毎日、電話が来た。

泣きながら弱々しく。

話をしないで電話を切ると、今度は怒鳴りながらの電話。

 

コロコロと態度を変えて。

 

 

お彼岸やお盆、命日にはあの頃を思い出す。

母はまだ、生きてる。

憎まれっ子世に憚る。

本当かも知れない。

 

母は、私のする事は何もかも認めない。

食事も必ず不味いと言う。

ご飯が硬いと食べないと言う。

洗濯物の畳み方も雑だからやり直せと言う。

靴の揃え方が曲がって居ると靴を蹴とばす。

もっともっと他にもある。

 

父が亡くなって仕方なく一緒に住んだ。

住んでやった。

 

爆発しそうになる。

私はいつまで苦しめられるのか?

 

今も元気過ぎるあの母親に。

 

父も母も嫌い。

 

私が母を嫌いな理由。

 

母だけを嫌いと言う訳じゃない。

父も嫌い。

 

父は、女を殴るのは平気な人間だった。

母はよく殴られていた。

 

素手で殴られたり髪を持たれて引きずられたり。

物心ついたばかりの私は、毎日が緊張して怖くて。

母親は、父親の好物ばかりを夕飯に出す。

父は、気に入らないと目の前にある物を全て投げつける。

自分の為にだけ出された夕飯、何度も何度も投げ付けてた。

 

 

私が小学生になると、父は私にも暴力。

箸の持ち方が悪いと大きな手で頬を何度も。

 

母は、殴られている私を見ていた。

見ているだけ。

声も出さず、殴られてる私を見てた。

 

助けてくれると思ったのに。

 

私が成長するにつれ、母は家出をする様になった。

私を置いて行く。

1週間くらいで帰って来て私を無視する。

 

 

母が居ない間は父は不機嫌。

暴力を振るわれるより、狭い納戸の様な所へ入れられる。

殺されると子供ながらに覚悟もした。

 

 

母親が居なくなれば私は殺されるか、運が良ければ施設に

でも預けて貰える。

だから、母が帰って来るとガッカリした。

 

 

父も母も私を育てる気は無かった。

父は弱い人間に暴力を振るい自分の弱さを隠していた。

母は、一人では何も出来ない、しようとしない浅はかな人間。

 

私は、1人っ子。

助けてくれる人は居なかった。

 

小5の時、宿泊学習で1泊の行事。

母はその前日にまた家出をした。

父に翌日が宿泊学習だと伝えると、殴られた。

母が家出して不機嫌だったから。

 

 

もう、このまま死んでもいい。

誰も自分の事なんて思ってくれない。

居ない方が良いんだ。

 

それだけ。

 

 

宿泊学習は行かなかった。

行けなかった。

殴られて、顔がアザだらけで口の中が切れていて

食べる事も出来なかった。

 

殴られる度にこのまま死んだ方が楽になるんだろう

って、考えた。

私は要らない人間。

悲しい毎日だった。

 

楽しい日なんて本当に無かった。

 

怖い父と私を無視する母。

親って、何だろうって思う毎日だった。

 

 

母を嫌いでいいじゃない。

 

てとです。

 

私は、母が嫌いです。

 

母を嫌いと言う自分の事も嫌いでした。

でも、線維筋痛症と言う病気になって母の事が

益々嫌いになりました。

 

 

私にも娘と息子が居ます。

自分が母親になって戸惑う事もありました。

私の母を反面教師にして、我が子を育てて来ました。

 

 

母が嫌いと言う私を冷たいと思うかもしれません。

それでも私は、母を憎み嫌いのまま終わると思います。

 

 

ここに自分の心の葛藤、やり場のない感情を吐き出そうと

思います。

 

他で、線維筋痛症更年期障害に関するブログも書いてます。

母の事も書いてましたが、母の事はこちらで。

 

共感されない方も多いと思います。

ここに書く事は私の感情で、理解を求めるものではありません。

 

宜しくお願いします。