tetok’s blog

母を嫌い。そんな自分が嫌でした。病気を抱え辛い毎日。母を恨むしか思い付かない。

今日の母。

 

 私は今、不調続き。

寝込むほどでは無いけれど、不調な時は態度にも出ている

んだと自分でも分かる。

 

母と会話する事、無いと同じ。

お互いに話す事は一方的な事だけ。

 

母の友人が来るとか身内が来た時くらいは仕方なく

話す。

 

私の具合が悪いと、母も機嫌が悪くなる。

まあ、昼ご飯や夕飯の手抜きが気に入らないのだと

思うけど。

 

今夜の夕飯の時。

焼いた魚が生臭いと言い出し、ご飯が硬くて不味いだの。

私の夫がレトルトのお粥を温めて器に出すと、熱すぎて

食べられないと言う。

 

「具合が悪いと、ご飯も不味く作るのか」と、私を見て

言い出した。

 

始まった。

夫と顔を合わせた。

 

私は食事を途中にして自分の部屋に行った。

 

私が居なくなると黙る。

夫ともあまり話さない。

 

ヒステリックを起こすのは認知症の症状なのかと

思い病院で診てもらった。

でも、異常は無くて性格だろうと言われた。

 

普通の母親じゃないし。

 

母は食事以外は自分の部屋で過ごしている。

私も今度からは自分の部屋に居る様にして、母から

見えない所で過ごそうかと思った。

 

母の悪態は慣れては居るけど、騒ぎが大きくなる前に

私が母の前から消える事になってます。

 

明日は母、出掛ける日。

私の息抜きが出来る日です。

 

心も身体も休めます。

 

 

叔父と叔母。

 

私を12歳から18歳まで育ててくれた、叔父と叔母。

 

叔母が私の父親の妹。

父と年が離れて居たけど、しっかりした人。

同じ親に育てられたとは思えない。

叔母の人柄は、おっとりした見た目だけど芯は強くて

物事をハッキリさせないと気が済まない人。

お料理が上手で、声が綺麗で歌をよく歌っていた。

 

 

叔父は、優しくて楽しい人だった。

身体が弱くて仕事を休みがちだったけど、夫婦仲が

良くてお互いを名前で呼びあって叔父はいつも幸せ

だ・・・と、口に出して言う人。

 

 

中学校の参観日や体育祭にも二人できてくれたり。

叔母は、学校の役員までしてくれていつも一緒に

居てくれた様な気がする。

 

私は叔父と叔母に引き取って貰い、誰よりも幸せに

なれた様に感じた。

本当の親には殴られたり食事もさせて貰えなかったり。

 

 

今、思い出しても辛い。

 

私は子供の泣き声を聞くと、怖くて耳を塞いでしまう。

自分の様に怖い思いをしてる子供の声に聞こえる。

私は怖くて助けに行けない。

殴る大人は怖い人だから。

 

でも、助けに行かない自分は母の様に冷たい愚かな人間。

自分の過去が思い出される。

母みたいになりたくない。

 

時々、そんな事を考える。

 

 

私はエレベーターに一人では乗れません。

狭いエレベーターは、見ただけでも気分が

落ち着かなくなります。

 

 

叔父と叔母とデパートに買い物へ連れて行って貰い

始めてエレベーターに乗って。

今でいうパニック状態。

病院に運ばれて大騒ぎになりました。

 

真っ暗な所へ入れられた時の怖いトラウマ。

その時に叔母が病院を転々と探し歩いて、結局は児童相談所

相談員を紹介してもらい色々な話を聞かれた。

 

その時に私の様な思いをしている人が居るんだと

また悲しくなった。

殴られる子供の心理より、殴る大人の心理を

探れと言いたかった。

 

私は最後まで、相談員には心を開けず叔母にも迷惑を

掛けていた。

 

父と母

 

 

父と母。

 

父は我が儘な人間で、気が弱い器の小さい男。

それに束縛する男。

母親が外に出るのを極端に嫌がり、男性と話したりするのを

見たら怒り狂って殴る蹴る。

パチンコ好きで持ち金全部を使うのは当たり前。

子供を殴る。

 

 

母は、父に女中と呼ばれていた。

食事はいつも父の好きな物、ほとんどが総菜。

家事は苦手で家の中はいつも汚かった。

何でも父の言いなり、自分の意思は全く無かった。

仕事もした事が無い、男が居ないと生きて行けないタイプ。

母が殴られると、自分の妹を呼んで父を止めて貰う。

私が殴られてても、見てるだけ。

母もパチンコ好き。

 

 

二人がどんな人間だったかを簡単に書いても最低な

人間だと直ぐに分かる。

 

 

父が殴る蹴るの暴力を振るい身内を騒がせると、母に

皆が離婚を進めていた。

離婚をして子供(私)を育てながら働けと言われたら

、「子供が居なければ別れたのに」って。

 

最低な女だと思った。

子供なんか産むなって思った。

 

殴る父親は、自分の中から消していた。

 

母の事は、「母が決断してくれたら、助けてくれたら」って

思ってた。

 

でも、「子供が居なければ・・・」って言葉で、

私は母親も消した。

 

 

今、同じ家に住んで顔を合わせる。

毎日、何故こんな女と一緒に居なきゃならないのか

ウンザリする。

捨てる事も出来たのに。

 

 

母親が重い、重すぎる。

 

 

 

今日の母。

 

私がずっと不調のままで母の我が儘が今朝、爆発しました。

今朝は夫が仕事を休んで起きるのがゆっくりでした。

私の体調も痛みが激しく、母の朝食の支度も夫に頼んで。

 

 

母は、夫の事があまり好きではありません。

勿論、夫も大嫌いだと思いますが。

 

起きて行かない私の事が気に入らなかったみたいで、

リビングから大きな声で嫌味な事を怒鳴っていた。

 

聞いていた夫が母に怒鳴り始めた。

「自分だって具合が悪い時があるだろう。少しは娘の

事を考えるって出来ないのか」

 

母は、私の所に来て

「アンタのせいで私が悪者だよ。クズ女」

 

娘にクズ女って、母親の言葉?

思った事を口に出せるのは本人は良いだろうけど。

言われた方は気分悪い。

 

いつまで生きてるんだろう。

少しの間、そんな事を考えてみた。

でも、年を取てるから早いとは限らない。

子供の方が早い場合もあるし。

母は私が死んだらどうなるんだろう。

夫や孫達に迷惑を掛けて白々しく生きて行くのか?

 

それとも、一人になって寂しく一人死んで行く。

 

考えてる事は私が先に逝く事。

母を苦しめる為に母より先には逝きたくない。

母の葬儀、私はどれほど清々しく迎えるんだろう。

そんな風に考えた。

 

でも、そんな日はまだまだ先かも知れない。

 

母のせいで私は夫にも頭が上がらなくなっている。

家の中を揉ませるだけで、何もしてくれないし私との

関係は最悪。

母親が居る事で心の底から笑えた日は無いのかも。

 

 

クズ女。

私は何でも良い。

嫌なのは、あの女の娘だって事。

これが姑なら違う意味での苦労があって大変なんだろうけど

自分の実母と言うと逃げられない。

どうせ、親子なんだからって言われて終わり。

 

 

育てて貰えなくても親子は親子。

あんな女が子供を産んで、それが私。

親子って、そんなに重い物なのだろうか?

 

私と私の娘。

幸せで居て欲しいと、いつも願わずにはいられない人。

親子だから。

 

親子って、言葉に違和感しかない。

誰にも言えないけど。

 

 

 

今日の母。

 

 

私は、線維筋痛症と言う病気と更年期障害が酷くて仕事も

辞めて家に居ます。

 

母親は元気で週に1回、習い事の様な集まりに出掛けるだけで、

ほとんどは自宅に居ます。

それでも、一人で過ごすのが嫌なのか誰かしら友人が毎日来て

居て賑やか。

 

私は線維筋痛症の痛みが酷くて杖をついて歩く様な生活。

でも、母の友人が来る度にお茶の用意や昼食の用意なんかも

させられる。

 

気の利かない娘。

愛嬌のない娘。

病気を理由に働かない怠け者。

 

こんな事を私に聞こえる様に話して居る。

 

母の友人は、週1回の習い事の中で知り合う人。

1~2回、来るとその後には来なくなる。

普通の人ならあの人とは付き合いたいと思わない。

 

家に来て母の話は私の悪口か、違う人の悪口。

同じ家に居ながら聞こえる様に目の前で娘の悪口なんて

聞きたい人なんて居ない。

 

母は自分から離れて行く人間は相手が悪いとしか思わない。

歳を取ってるから、まだ許されてる部分が大きい。

これがそれなりに若かったら、相手にされない。

 

今日の母。

 

この2~3日、私が不調で今日も朝から寝込みたかった。

母の朝御飯を準備して私は自分の部屋で横になっていると、

足音を立てながら部屋に来て

 

「11時頃、〇〇さん来るからお茶と昼、用意しなよ」と、言う。

 

私は  「調子悪いからお茶はポットを部屋に持ってく。お昼は

       出前にして」

 

そう言うと母は

    「使えない奴は、旦那に捨てられる。いい加減にしなっ」

 

私が具合悪いと言うと大激怒。

今日はまだ良い方。

 

そんな会話をした後は私は何もやらない。

嫌味を言われてしてあげる事は無いと思っているから。

友人が来てから台所でガチャガチャと用意をしてた。

お昼は出前で電話番号が分からないと大声で叫んでいたけど

無視をして居た。

 

これもいつもの事。

どっちが困るかは私にも分からないけれど、今のところ

私は全く困らない。

 

 

 

殴られる自分。

 

 

 

殴られている時の自分は、きっと自分は死んでしまう。

いつもそう思っていた。

 

自分が死んだらこの親はどんな顔をして葬式を出すのか

子供ながらに考えていた。

泣いてもくれないんだろうな。

 

自分は殴られている事を誰かに知らせる事は出来ないけれど

、何かに残して置かなければ親たちの思うがままになってしまう。

漠然とそんな事ばかりを考えて居た。

 

 

殴られるのは休みの前日。

土曜日の夜が多かった。

小学校は3時間授業で昼ご飯は自宅で食べるしかない。

母親は昼ご飯の用意などしてくれなかった。

 

機嫌が良い時はお菓子が出て来る。

 

土曜日の夕飯が待ち遠しくて、父が帰って来て夕飯。

夜8時頃にその日、初めての食事。

その頃、約40年前くらいの頃。

テレビではプロレスがやっていた。

 

父がテレビを観ていて食べ始めない。

私はお腹が空いて我慢出来ずに、ご飯に箸をつけた。

 

 

その瞬間、箸と茶碗が吹っ飛び自分の顔に当たったと思ったら

自分の身体も畳に叩き付けられた。

母親がテーブルを私から離した。

 

髪を引っ張られて父の方へ引きずられる。

その日は自分から死んでしまいたいと思った。

助けてくれる人もいないし、目の前にあるご飯も食べさせては

貰えない。

 

毎回、殴られる時はごめんなさいと言う。

悪い事をした覚えはない。

いつも何故、怒るのか理不尽過ぎて分からなかったし。

でも、ごめんなさいと言う。

 

だけどあの日は、ごめんなさいも言わなかった。

父は抵抗していると思って、尚更腹を立てて殴って来た。

 

抵抗したんじゃない。

死んでもいいって思ったんだ。

 

私の様な思いをしている子供がいない事を祈ります。

子供は無力、両親の愛情があれば笑っていられます。

 

 

 

私の子供の頃。

 

 

 

 

叔母の家に行って3人の生活。

私には夢の様な生活。

 

叔母と私の父親が本当に兄弟なのか不思議だった。

叔母は私を連れて帰ってから、父からの電話で悩まされていた。

私は叔母の家でも、父が来るんじゃないかと外に出るのが怖かった。

 

 

学校を転校する手続きを叔父がしてくれて、私は叔母の家から

学校へ通える事になって…

あの父と母から逃れられたんだと心の底からホッとした。

 

 

学校、全校生徒が60人位の小さい学校。

私には心地良かった。

友達も出来て楽しくてたまらなかった。

家に帰ると叔母が手料理を作ってくれて3人で食事。

朝御飯も叔母が早く起きて作ってくれて。

 

私は朝御飯は母に食べさせて貰えなかった。

それでか、朝御飯を残すと叔母が

「全部じゃなくていいからもう少し食べなさい」

私は、渋々言われた通り食べて学校へ行く。

 

 

私は勉強が出来なかった。

叔母が後から話してくれた。

前の学校の担任の教師が、学力も低下していると叔父に

伝えていたそうで叔母は家庭環境のせいなら正してやらなきゃと

考えたと。

 

 

中学入学前には英語の塾にも行かせてくれた。

習字やそろばん、周りの子と同じように。

 

叔父と叔母は私を転校させるために、大変な苦労を

した。

相手があの父と母。

警察に訴えられたり、叔父は殴られたりした。

それでも、近所の人たちの証言や友達の話を聞いて

虐待を受けていた事が明らかになって、黙らざる終えなかった。

 

 

中学に入って半年位経った頃、私の荷物が送られてきた。

段ボールにグチャグチャに入った服や靴。

何もかも一緒に入って。

 

 

叔母は泣いて居たが、私は嬉しかった。

捨ててくれた。

本当に喜んだ。

 

 

 

 

 

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